つまらない枠を当てはめようとするヤツにいっておく!
2010年 12月 22日
いやみったらしいコメントが来たのだ。
こんなの。
名前: me
エリゾウさんがこんなに年取ってるなんて・・。 かなりガッカリです。
文章だけ見たらわかめなのかなぁ?と思っていたけれど、歳相応の文章でいいんじゃないんですか???
……「年取ってる」って(苦笑)
すごいよなあ、こういうことをわざわざ書き込むひとの神経って。
しかも大人だとわかっている相手に対して、上からサジェスチョン。
この人間心理には、興味深いものがあるね。
なぜ自分が勝手に誤解していたことで、他人に注文つけるのだ?
文筆業の人間に「こう書け」ということは原稿料を払ってくれるってことですかね?
だいたいわたしは年をごまかしとらんよ。
かつてホットドッグプレスのライターをしていた若いライターなんているわけないじゃん。
前々から介護の話を書いているんだよ。
読めばわかるだろう、ふつう。
まあ、勝手に誤解しているのは本人の読解力の問題だし、悪意あるコメントは抹消すればいいだけだから、ここまではスルーでオーケイ。
しかし今回は文章というものをなめていることに腹がたったので、ここで反駁する。
わたしは「書く」ということには真剣です。
他のことではいいかげんだけど、書くことについては真剣。
その虎の尾を踏まれたら、黙ってはいないよ。
文句あるなら、サシで話すから自分のツラとメルアドを曝したまえ。
IPアドレスはわかっているけどな。
なにより文章というものをつまらない次元で捉えていることに腹がたつ。
始めに断っておくと、わたしが書いているのは、さまざまな媒体です。
女性誌でトレンド記事も書けば、インタビュー記事も書くし、奥さま雑誌でマダムな文章も書けば、メンズ雑誌で渋い文章も書くし、富裕層向け雑誌でゴージャスな文章も書く。
かつてアイドルのゴーストもやったし、科学雑誌も手がけたし、ジュニア小説も書いていた。
社長の半生をまとめる伝記も書けば、広告コピーも書く。
そのつど媒体にあわせて、文体を変えています。
媒体の年齢層やターゲットによって文体を変えるのは当然のこと。
プロだからね。
一種類の文体しか持っていないのとは、違うんですよ。
そもそも一流の出版社が「うひー」とか「だぴょん」としか書けないライターだったら金を払うと思いますか?
一流企業が駄文を広告として載せると思います?
文章を書くことは誰にでもできます。
しかし金を取れる文章を書くことは別問題。
文体とは、いわば服の着こなしのようなものであると丸谷才一氏はおっしゃっています。
これは名言であって、文章も着替えるものなんですよ。
文章においても紋付きを着ることもあれば、パジャマを着ることもある。
ドレスアップすることもあれば、機能性を重視することもある。
そして服装においても自分らしいスタイルがあるように、スキルを積むことで、自分らしい文体というものが徐々に確立されていくんですね。
もちろん服装にも「年相応」というのはあるけれど、それは本人が「こう見られたい」という目的があって、その意図とずれた時に「年相応」が大事になる。
目的と効果の問題です。
もしベッツィ・ジョンソンに「年相応の恰好」を勧めるひとがいたら、たんにつまみ出されるだけ。
基本的にわたしにとって文章とはお金をいただいて書くものです。
いわば外に出かける服。
だから場面に応じて、ドレスアップする。
しかしこのブログは一切お金をもらっていません。
たんなる自分の趣味。
うちのリビングに友だちを呼んでササッと簡単なつまみを作って出してくつろいでもらう、というのに似ている。
お金をもらっていないんだから、わたしの好きなように書いているし、部屋着であるわけです。
気があわないと思ったら、ブログを読まなければいいこと。
もちろん気に入ってもらえたひとには、ぜひ楽しんでいただきたいです。
遊びに来て下さる方はベリーウェルカム!
そしてこの拙ブログといえど、あらゆる文章には「伝える」という目的があります。
では、このブログにおけるゴールとはなにか?
それは読んでいるひとに、情報をおもしろく、わかりやすく伝えること。
なにも「わたしを素敵に見せる」とか「年相応の落ちついた女性に見せる」とかが目的じゃないんですよ。
あくまで読者にとって「読みやすい」「わかりやすい」「とっつきやすい」「楽しめる」というのが優先事項。
そして自分のスタイルを出すために、わたしはこの書き方を選んでいるということ。
自分にしか書けないリズムがあると思っているから。
わたしはわたしの文章を気に入ってくれているひとのために書いているのであって、嫌いなひとは致し方ない。
好きでいてくれるひとがいたら、それで充分。
そういえば先日パーティでお会いしたカメラマンの坂本真理さんに、
「ブログ読んでいたら、もっとおっさん入っている人かと思っていました」
といわれて爆笑しました。
ちょ、おっさんって、なんやねん(笑)
「ブログにもコメント入れようかと思いましたが、エリぞうさんのおっさんイメージを壊してはいけないと思ったので、やめておきました」
ちょっと待ったー!
誰もおっさんのイメージなんて大切に守ってないって!(笑)
オレはステテコ履いてブログを書いているのかYO!
つまりこのブログを読んで「若い」と感じるか「おっさん」と感じるか、受け取り方は読んでいる方それぞれってことなんですね。
坂本さんと話した時はとても楽しかったし、一気に親近感を持って、友だちになりたいと思いました。
それこそ彼女の人柄のなせるワザでしょう。
いっぽう今回のような残念なコメントを見ると、がっくりきます。
そもそも「年相応の文章」なんていう発想じたいがつまらない。
文章を年齢で区切る?
なんのために?
なぜおのれの小さな常識の鋳型にはめようとするんだろう。
もし世のなかの絵や文章や音楽や映画や芝居やファッションが「年齢」や「常識」という型にはまったら、どれだけつまらないことか。
ある年齢になったら、こういう恰好をしなければいけないとか、ある年齢までに結婚しなければいけないとか、ある年齢になったらなにかにチャレンジしてはいけないと年齢制限で考えるとしたら、なんて可能性の少ない人生であることか。
こんなふうに文章に関して紋切り型の考え方をするということは、あまり読書をしたことがない人なのだろうけど、他人のブログにイヤミをいっているヒマがあったら、いい本を読んだほうがよろしい。
たくさん本を読めば、おのずと文体とはなにかわかってくる。
音楽でも小説でも芝居でもなんでも一緒ですが、なにかが「わかる」ようになるまでは一定の量をこなさないと掴めない。
そして文章がわかるようになるということは、人生の大きな糧です。
亡くなった栗本薫氏は「文章における絶対音感」という表現を使っていましたが、読書を重ねるうちに、絶対音感のある文章というものがわかってくる。
村上春樹や町田康、川上弘美といった人たちの文章が、いかに「耳がいい」かわかるようになる。
まともな文章も書けないのに、いっぱしの口を叩くのは十年早い。
わたしのブログはどうでもいい些事にせよ、文章というものを舐めたらいけない。
文章を読む、書く、わかるというのは考える力の基本です。
若いみなさんはぜひとも若いうちに本をたくさん読んで下さい。
でないと、想像力が痩せ衰えてしまうので。
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今日のエントリは笑えないことになって、すいません!
明日は楽しい記事でゴー!
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