人生における歓喜の瞬間とはー「ゆきわりそう」第九コンサートで体験したこと
2013年 06月 11日
わたしにとってはまさに目ウロコの体験でした。
尊敬する友人が3年前からオーガナイズに係わっていることもあり、わたしも少しだけ関与させていただいたのですが、これが本当にすばらしかった。
障害者の方が歌う第九といったら、うがった言い方をすれば「かわいそうな人たち」が出る公演だから「お涙頂戴」的な流れと捉えられなくもない。
ところがびっくり、そんな甘いものじゃなかったのです。
実際にカーネギーホールで聞いてみたら、鳥肌が立つほどすばらしかったんですよ。
なんと当日はカーネギーホールが埋まるほどの満員御礼
舞台に出たのは日本から来た障害者の方たち、そして一緒に合唱に取り組んできた方たち、さらにNYの混声合唱団。
これにプロとして活躍しているソリストのオペラ歌手たちが壇上に立っていました。
一般的にいえばプロのオペラ歌手の方たちと、アマチュアの合唱団の組み合わせでは、ちぐはぐになりやすいものですが、この公演ではうまくブレンドされていました。
おそらく全体をまとめあげた指揮者の腕も大きいのでしょう。
美しい歌声を聴かせてくれたソプラノ歌手の田村麻子さん。
麻子さんの横にある車椅子に載ったお人形さんたちは、ハッピードールといって、布の人形に目鼻をかけるようになっていて、世界の子供たちが作って交換できるというプログラムなのです。
今回の公演でも重度の障害で渡米できないひとたちや父兄の手によって作られたハッピードールが本人に替わってカーネギーホールの舞台に立ちました。
わたしはたまたま公演に先立って身障者である和馬くんとお母さんに会う機会があり、テレビのインタビューに答えているお二人を拝見したんですよ。
その時テレビのレポーターに答えているお母さまの話を聞きながら、車椅子の和馬くんが「ぷふッ」と笑ったのが印象的でした。
いわゆる照れ笑いだったんですね。
「なんだよ、そんなこといっちゃって。おふくろ、照れるじゃんか」
みたいな笑い方だったんですが、その時に障害を持っている方に対して自分が持っている漠然とした偏見にも気づいたのです。
それは障害を持っている方たちはマジメなはずだ、いつも深刻に悩みながら生きているはずだという先入観であったわけです。
ああ、彼だってふつうの青年で、お母さんの言葉に照れ笑いなんてしちゃうんだよな、という当たり前のことが当たり前のこととして胸に落ちてくる。
彼らと実際に接してみて感じたのは、いかに自分が障害者の方たちや福祉に対して先入観を持っているかという目ウロコ体験でした。
障害を持った方たちが第九を歌うという試みだけですごいし、障害の重い車椅子に座った方たちにとっては飛行機に乗るのも舞台に長時間いるだけでもかなりつらいと思うのです。
それでも彼らはアメリカまで来て第九を歌うわけです。
わたし自身は正直いえば、なぜ? なぜそこまでするの? という疑問もなくはなかった。
でも音楽jの力とはすごいのだな、と改めても思い知らされたのです。
車椅子に座ったままの団員もいれば、立って歌っていた団員もいたし、ヌイグルミを胸に抱きしめて歌っていた団員もいれば、互いの手を握りしめあって舞台に立っていた団員もいた。
その全員がひとつになって歌っていたのです。
そしてまた手話隊の人たちがすばらしかった。
手話っていうか、もう演劇パフォーマンスの域ですね。
公演のあとはスタンディングオベーションで、多くの観客の方が総立ち。
そして車椅子の方たちに握手をしていくのですね。
今回の公演ではアメリカ人障害者の方もたくさん来場していましたが、彼らの顔が喜びで輝いていたのも印象的でした。
そして終わったあとに楽屋に戻ってきた障害者の方たちに、よかったよ、すごかったよ、と声をかけた時に、彼らが笑っていた笑顔のピュアさが印象的でした。
ありのままでいえば、うまく喋れないひともいる。口がうまく動かなくて涎をたらしているひとだっている。
けれどもなんと人とは美しいものであるか。
どんな境遇であってもひとの掛け値なしの笑顔とは、なんと美しいことであるか。
理事長の姥山さんがインタビューされている話を聞きながら、わたしにとって胸に来たのが、つぎの言葉でした。
「人生で本当に嬉しいと思える瞬間が何度あるか。障害者の生活には、なかなか弾けるような喜びの機会がない、そういう瞬間を与えてあげたかった」
幸福の定義はひとによってさまざまであり、なにを幸せと感じるかは、ひとによって違うでしょう。
それでもひとついえるのは、幸福とは他人が定義するものではなく、自分が幸せだと感じる瞬間の積み重ねであり、人間というのはそうした瞬間瞬間を生きる、あるいは瞬間を突きさしていく串のような存在と考えてもいい。
そして喜びを感じられること、幸せだと感じる瞬間があること、歓喜の瞬間があること、それじたいが恩寵のようなものと思えるのです。
ベートーベンが「歓喜の歌」と命名したのは言い得て妙であって、歓喜の瞬間というのは時という糸をつなぐ宝石だと思うのです。
生きることは決して楽ではない。
むしろ困難の連続です。
多くの時間は我慢の連続であり、思い通りにならないことの連続ではないでしょうか。
それでも彼らに教えてもらったのは、歓喜の瞬間の輝きです。
すべての人よ、兄弟になろうと歌う時、わたしたちはその瞬間たしかにひとつであり、あなたとわたしの境界はなく、世界は美しく調和している。
生きるのはつらく苦しみの連続であるのも、世界は不正と不公平と欺瞞と憎悪に満ちているのも事実です。
人類がみな仲良くできるわけがない。
しかしながらまたいっぽう世界は美しく、わたしたちはひとつであり、わたしとあなたは連続したものであり、生命とはなんと美しいことかと感じられる瞬間も真実です。
それは刹那であっても、なにかしら永遠のきらめきではないか、と感じるのです。
その昂揚する歓喜の瞬間を与えてくれた「ゆきわりそう」の障害者の方たちに感謝したい気持ちになりました。
あなたたちはすばらしい。
生きていてくれてありがとう
そしてそこにいてくれてありがとう、と。