逝くひとの力
2007年 12月 11日
友だちのみならず、読者の方からも何人もメールをいただきました。
ありがとうございます。
闘病をされたお父さまを看とった経験のある方や、家族と遠く離れて住んで心配ししている方。
さまざまな苦労をしている方がいるのだなあ、とどのメールにも深く共感を覚えたものです。
いまご家族の看病をしているかたたちみんなに、どうかがんばって下さいね、と応援したい気持ちです。
さてわたしは今回いろいろと友だちには力になってもらったんですが、何人かの身内を既に看とっている友だちが、こう話してくれたんですね。
「ふしぎなもので、死んでいくひとはいちばんいい時を選んで逝ってくれるのよね」
もちろん事故や災害、あるいは急病や突然死といったケースではなくて、あくまで老衰や長患いに限った話ですが。
どういうわけか逝くひとは必ず周りにとってもいい日を選んでくれるのだ、と。
わたしも半信半疑でその話を聞いていたんですが、たしかにこれはあるかもしれないな、と今回感じました。
父が亡くなる一週間ほど前のこと。
父の容体について、兄とあれこれ話したんですよ。
で、兄が新年そうそうにミラノへの出張があるとのことで、その出張について少し迷っていたんですね。
「このぶんだと出張をとりやめることになるかもしれないなあ。
まあ、会社だから、おれが行けなくなれば、必ず代わりの人間を立てられるんだけどさ」
それを聞いたとき、わたしはなぜか確信があってこういったのです。
「だいじょうぶだよ。
パパはお兄ちゃんの仕事の迷惑になるようなことは絶対しない。
きっとパパは年内に亡くなると思う。
お兄ちゃんは必ずだいじな出張に行けるよ」
兄は「そんなの根拠がないじゃん」と応えていましたが、わたしには父を信頼する気持ちがあったんですよ。
父は決して家族に迷惑はかけないだろう、と信じていました。
それは父のスタイルではないから。
亡くなる数日前から父はしゃべることもできなくなり、なにかこちらが尋ねると、うんうんとうなずくことしかできませんでした。
なにをいっても、うなずくことしかしないので、内心もうわかっていないんだろうなあと思っていたんですね。
それで血圧が下がったときに、わたしが枕もとで、
「お兄ちゃんを呼ぼうか?」
と尋ねると、きっぱりと首を横にふったんですよ。
もういちど尋ねても、やはりかぶりをふって、あきらかに意志がある。
そんな状態でも、兄に仕事をおいて来てもらいたくない、自分はだいじょうぶだといいたかったらしいのです。
そして実際に父は誰にも迷惑のかからない日を選んで逝ってくれました。
わたしにとってはピーターがNYから来てくれている間であったことが、どれだけ心強かったことか。
ふしぎなことに、その時期を選んでくれて、わたしは父に感謝しています。
多くの海外在住者のひとたちにとって「親の死に目に会えないのではないか」という不安があったり、あるいはいま日本に住んで介護の必要な身内を抱えながら、先行きに不安を感じていたりする方も多いでしょう。
けれども生きている人間たちがあれこれとわずらう以上に、じつは死に逝く方たちはよくわかっているのではないか、という気がするんですね。
死に際するひとには、なにか見えないものも見えているのではないでしょうか。
産まれるに時があり、死ぬに時がある。
逝くひとの「力」というのを、わたしは信頼してもいいと思っています。
いま不安を抱えているみなさん、だいじょうぶですよ。
お身内を信頼して、だいじょうぶです。
あなたのことをだいじにしているひとは、意識がなくなっても、顔がわからなくなっても、最期の最期まであなたのことを考えてくれています